ホステルのベッド、朝起きると目の前に横になったカオナシがいた。自分の頭側にあるベッドに寝ているトルコ人の女の子のタトゥだった。クラブに行く前はすげぇ格好なのに、寝顔は普通の女の子でかわいい。

いや、そんなことはどうでもいい。朝8時に起床、そしてネットをイジイジ、そしておもむろにバーガーキングへ行く。

「チュース!あー アイツChicken Crispy、メヌー」
Cola?
「やー」
Ketchup oder Mayo?
「ケチャップ!」
「フィウカマッツェンオイロー」

(レジを凝視)

(あぁ4.5ユーロね。数字聞き取れない)

「ダンク シューン!」
とりあえずチキンクリスピーバーガーをゲットした。経験値はたぶん上がったと思う。

今日はベルリンの郊外の街へ行こう! チキンクリスピーをかじりながら携帯をいじいじする。
食べ終わって、トレーを回収ボックスに入れて店を出た。そのままトラムに乗り込む。

目指すはHauptBahnHofだ。要するに中央駅である。ベルリンのトラムはなぜか加速がすごい。
減速もなかなか優秀で、日本人がイメージする路面電車(荒川線比)に比べてかなり速い。

あっという間に中央駅には、到着せず、途中のSバーンに乗り換えられるAlexandra Plaz駅で乗り換えた。駅でワッフルを買う。ちなみにアイツ(1つ) ヴァッフル(ワッフル)、ウンド、アイツコーラというと、コーラとワッフルが買える。

今日の目的地に行く電車が入ってきたが、ゾーンを跨ぐので、一度ゾーンを跨ぐ手前の駅で降りて、ゾーンを跨ぐ切符を買うことにする。ちなみに今日の目的地はPotsdamというところだ。

結局途中の駅で降りて、7.5ユーロの切符を買った。この切符で両方のゾーンを1日乗り放題という切符だ。片道は3.5ユーロくらいなので、こっちの方が良いだろうと考えた。(乗り間違えても痛くないし)

よく考えたら、1週間フリーのチケットを持っているとは言え、最初の駅でチケット買っても結果は一緒ではなかったのかと思う。

Potsdamって言うと、日本人には馴染みの多い地名だと思う。たぶん第2次世界大戦で日本の無条件降伏を求めたポツダム宣言を連想する人が多いのではないだろうか。

まぁとりあえずポツダムに到着、貸自転車屋があるプラットフォームからエスカレーターを上ると、新しい近代的な駅のコンコースに出る。そして、Google Mapによると603番のバスに乗れば良いらしい。

バスにはさっきの7.5ユーロのチケットで一緒に乗れる。要するに同じゾーンの中だとバスだろうがトラムだろうがなんでも乗れるのがゾーン制の利点だと思う。

バスは出発して、小綺麗な街を抜けて森の中へ、ベルリンと違ってポツダムには高層ビルが無い。そしてなぜか森の中でバスは止まってしまった。どうやら603に乗ったという点はあっているけど、駅を起点としているバスではなく、誤った方向のバスに乗ってしまったらしい。

そして近くには経済学を勉強している人なら一度は聴いたことがあるであろう人の名前の通りがあった。

誤った方向のバスに乗れば、森の中に入ればカール・マルクス通りがあるってね…うん。

森の中をしばしうろうろ、そして気を取り直して603番のバスに乗って、ポツダム会議会場に向かうことにする。また駅前を通って、低い建物が並ぶ市内を抜けて、左には一軒家が並ぶ住宅のような建物が並び、左には森のような公園が並ぶ狭い道に停車した。

今度は間違っていないらしい。そして会議の会場はなんかの別荘のような趣で、広い公園と湖みたいな場所がなんか国際会議の舞台っぽいなと思った。国際会議はやはり外交の縮図であって、障子に目あり、壁に耳ありの世界であり、盗聴を避けるために広い庭を歩きながら話し合いなんかをしていたという話を思い出した。

建物の中に入り、6ユーロとカメラ持ち込み料金の3ユーロ払って9ユーロ払って入る。日本の高齢者のツアー団体がなぜか居る。

実はこの会場となった建物はCecilienhof (ツェツィーリエンホフ)宮殿という建物で、実は当時の皇太子のために作られたが、皇太子は戦争で前線に出ており、この建物の名前にもなった妃が住んでいたらしい。妃は船旅が好きだったらしく、船室風味の部屋が1つ作られている。

ナチス以降は君主制組織が解散させられたので、私人として宮殿に住んでいたらしく、そこは上流階級の社交場にもなったらしい。

そして彼女はソ連赤軍の襲来から避難しバイエルンへ、そして、ソ連赤軍に占領された宮殿は、ポツダム会談の舞台となる。

日本の教育は日本史と世界史に分かれているため、ポツダム宣言に目が行きがちだが、ポツダム会談ではその他にも、ナチスドイツ後のドイツについて、そのドイツの植民地と影響圏について、そして、イタリアとかの植民地についてなど、ヨーロッパの色々についてトルーマンとチャーチル(そしてそのあとのアトリー;Clement Attlee)、そしてスターリンを代表として3か国が会議のテーブルについたようだ。

この会談とウィーン会議の違いは、庭がそんな広くなさそうだという点と、メッテルニヒがいなかったという点だと思う。そして領土分割という意味と秩序形成という意味では共産圏と資本主義圏の間で対立が起きるし、今後の世界秩序にも影響を及ぼすものだった。そして、会議は踊るが進まずという点もなんか似ている気がする。

ちなみにウィーン会議はナポレオンが流刑地を脱出したというニュースが流れて、各国妥協に応じて終結したようだ。つまり会議をConcludeさせたものは外的要因という気もする。

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