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ムンバイの2日目、今日はMumbai City Museumと、時間があったらスラム街に行こうと思った。

10時にホテルをチェックアウトし、ラッシュアワー後のひと段落した通勤電車でバイキュ―ラ(Byculla)駅に向かった。駅を降りるとムンバイ市街と違って排ガスの臭いが立ち込める路地の隅でなぜか新鮮な野菜が売られているインドの混沌とした情景が展開されている。

 そしてクラクションけたたましい大通りをどうにか渡るとMumbai City Museumにたどり着き、耳は落ち着きを取り戻した。入場料の100ルピーを払い中に入る。インドや元は島が連なっていたところを埋め立てて出来上がったムンバイ市の歴史、そして今まで行ってきたヒンドゥー寺院やタージマハルなど、今までのインド旅を振り返るような展示で妙な気分になっていた。

 他にもインドの各民族や宗教による服装や装飾、身体的特徴などを現した人形が展示してあったりして、民族や宗教に関心のある人にはお勧めかもしれない。

 そしてムンバイにある旅人が立ち入ることができないとされている葬儀施設、具体的には死体を置いてそれを鳥に食べて貰うことによって天に死者を送るとされる、鳥葬という儀式を執り行う沈黙の塔の模型もある。

 この博物館は吹き抜けとなっており、その真ん中には博物館を創設したユダヤ人のおじさんの大きな像が立っている。最後はシルクロードを伝わってきたインドや日本などから来た製品を見て、座りたくなり、カフェで落ち着いた。

 博物館で働いているインド人が何やら展示について話し合っているところに出くわしたが、彼らやはり知的なエリート階級だからか、ずっと英語で会話を続けていて、表通りと別世界だが両方ともインドには違いない。

 博物館から出ると、やはり博物館の中と外で世界は大きく違った。まるで神聖な場と俗世間の境界線であるかのように。そして俗世間では知識や教養と無縁の人々がクラクションを鳴らしまわり、売れそうにないものを売り続け、そして路地の片隅に座り施しを求めている。

 博物館の見学は2時間程度であっさりと終わってしまい、記憶の断片とインターネットの情報を頼りにスラム街まで行ってみた。

 スラム街の最寄り駅はSionという駅で、列車を降りると駅の建物に、「Let’s send them to school, not work!!」と書かれたイラストが現れる。少しここがスラムなのかもという実感が湧いた。そしてその壁の向こうにある道路を潜るトンネルには明かりが無く昼でもそこだけ薄暗い空間となっているが、そんなことはお構いなしに人々はそこを通過していく。

 トンネルを抜けると、そこは市場で目がまだ黒い魚や、生簀を泳ぎ回る魚、そして果物類が姿を現す。さっき博物館の近くで見た果物よりもずっと瑞々しく感じた。

 そしていよいよスラム街へ、ただ道路は汚らしいが、ある程度レンガで舗装されていてプレハブのような店舗が軒を連ねる。インターネットの情報によるとここがスラム街なのだが、普通のインドと何が違うんだろう。これがスラム街ならそこら辺のインドだってスラム街同然ではないかと少し考えた。

 ただ通りを進むにつれて、ここが本当にスラム街なのかもしれないという感じもしてきた。通りを進んでいくとニワトリの肉を売る店が多い。お客が来て160ルピー払い、肉を買おうとするとさっきまで生きていた雄鶏が綺麗に皮を剥がされて肉だけになって表れた。

 ヒンドゥー教的に考えればここは穢れたエリアなのかもしれない。少なくともバラモンが立ち寄るエリアなのかと言えば、それは考え辛いだろう。

 このスラムとされている道も最初は「MG Road」と立派な通りの名前を与えられているが、そのうち通りの名前は消えて、地名と「Near Church」とか曖昧な地名になっていく。そしてその先に進むと送電線が現れ、プレハブのすぐ上を3つの鉄塔に支えられた高圧電線が通過している。

 そしてその近くのプレハブには「Under TATA Power」とかいう妙な住所が掛かれていた。本当はここには高圧電線しかなかったのかもしれない。そこに出稼ぎの人が集結してスラムが成立したのかもと考えらえる。そしてスラムではタミル語の看板などもあり、ヒンドゥー以外にもいろいろな言語が話されているようだった。そんなスラムにも今ではトラックがどんどん入ってくる。もう立派にインド経済の一画を占めているのだろう。

 スラム散策の途中、昼食を食べていないことに気が付きバナナを買った。バナナは今までのどのバナナよりも安く、たったの2ルピーだった。ここでバナナを買ってどこかに持っていく人もいて、転売の一番上流の方にこのスラム街があるのかもしれないと思った。通りで買う5ルピーのバナナになるまで、何人もが間に入っているのかもしれない。

スラムの宗教

 スラム街を一通り散策し、駅へ戻ると、ふとイスラム教の旗が多いことに気が付いた。さっきのニワトリを殺して売る商売もイスラム教徒だが、イスラム教の教義に基づいてニワトリを殺しているようには思えなかった。おそらくヒンドゥー教の立場から、イスラム教徒へ改宗したのかもしれないと思った。

 そしてスラムから駅へ戻る途中の工事現場の近くには仏教に改宗したインドの政治家であり哲学者、アンベートガル(B.R.Ambedkar)の写真が掲げられ、煌びやかな看板の中にヒンドゥー語で何やら書かれていた。おそらくヒンドゥーから仏教への改宗を促すものらしい。彼はインド独立の功労者でもあり、ネルー内閣で法務大臣を務めたダリット(不可触民)出身の政治家だ。彼はマハトマガンジーを尊敬はしていたが、ガンジーはカースト制度で不可触民とされていた人々をカーストの最下位に組み込むことによって権利を保障しようとしていた反面、彼はカースト制度の撤廃を要求し対立した人物だ。

 カースト制度がインドに根深く残り、貧困の原因となっている。その一方でインド国民の殆どもカースト制度に疑問を持たなかったため、もしガンジーがカースト撤廃を掲げていたら人々はガンジーの下にまとまらず、インドは独立できなかったかもという話もあり難しい問題なのかもしれない。

 実は日本の世界史の教科書にアンべードガルは出てこないので知らない人も多いが、インドの底辺層の間ではイスラムやキリスト教と共に人々の心の支柱になっている現実がある。

 工事現場から駅へ戻る途中、子供たちはヤギを引っ張りどこかに連れて行く。ヤギは懸命な抵抗をし、子供たちは小さな体で力の限り踏ん張ってヤギをコントロールしようとしていた。ヤギは自分の運命を知ることなく、八百屋の売り物であるオクラが入ったバケツに首を突っ込もうとしていた。子供も懸命に生きるために無駄な金は使えない。ヤギを全力で通りに引っ張る。

 その後、駅のすぐ近くではヤギが押し倒され、首を押さえつけられていた。そしてその近くでは魚が売られ、ハエがたかっていた。おそらく何年も前から同じことをしていて、これから先も続くのだろう。

 

スラムの月収事情

 スラム街を見て回った限りだと、月収の下の方についてはよくわからなかったが、月6万や7万など、ムンバイにしては良い月収を稼ぐ人もスラムの中にはいて、スラムの中には商店や作業場があり、実際にはスラムの外に家を持っているような人たちもいる。

一方で、底辺は悲惨なのかもしれない。教育はそんなに充実していないように思えた。

 また、その一方でスラムの上の方には月収200万円(100万ルピー)台の人も居て、その人はスラム内に以前は住んでいたが、今は作業場がスラムの中にあるということだった。以前はかなり悲惨な生活をしていたらしい。

彼の生活を良くした要素の1つにインターネットと起業、そしてスマホがある。

 その一つは Dharavimarket.com というサイトでインドの起業家が作り、このサイトを通じてスラムの職人が製品を世界相手に売ることに成功したらしい。それ以前はMoney greedyな中間搾取が激しく、職人は悲惨な生活をしていたが、作ってたものは1流品だったそうだ。それにも関わらず製品は買いたたかれていたのだろう。

 ヨーロッパやアメリカなどに革製品を売ることに成功し、1100万円台の収入を得ている職人もいるようだ。継続的にビジネスができているということは、かなり職人は信頼されているということらしいし、対価が大きいという面でモチベーションにもなるのだろう。

 そしてインドでは製品を地元の小売店などに製品を売るのも大変な作業で、交通事情が凄い悪いし、クラクションは煩い。そこで時間の節約にも成功したというわけだ。

 貧困の原因として、やはり収入の中間搾取や時間の搾取や非効率は無視できない問題だということがわかる。それを改善することで明るい未来が確実にやってくるという事例がここにあると思う。

 これはインドに限らず日本でも貧困の原因として同じ問題を抱えているのかもしれない。

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社会を見渡してみると、搾取が存在したり、それを無くすことで実現する未来が見えてくる可能性がある。

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