ホテルから自転車で街の中へと下っていく。
ホイアンは日本ともゆかりのある街で、朱印船貿易の時代に、日本人がたくさん貿易のために訪れたところだそうだ。

上の絵は朱印船がホイアンの港に入る様子を絵で描いたもので、朱印船貿易の時代は、日本は「明」とそんなに仲が良くなかったので、ちゃんとした貿易関係がなかった。そのため、荷物は一度ホイアンを経由し、中継貿易のような形で中国と取引されていたようだけれど、足利義満の日明貿易との時代関係はよくわからなかった。

ここにはかつてタイのアユタヤのように日本人町があったと言われ、来遠橋、通称日本橋と呼ばれる橋があり、お札のデザインにもなっている。今は改築され、中国風の橋の上にお寺のようなものがあるが、今でもJapanese Bridgeと呼ばれていた。

日本人の商人の墓も近くにあるらしいが、今回は行くことが叶わなかった。
そして、大火で街が焼けてしまったことがあるらしく日本人町が橋のどっち側にあったということは今でもわかっていない。
ただ、とある名所を訪ねた時に、日本人っぽいものを見つけた。
どこが日本人っぽいのかというと、髪の結び方で、なんか時代劇とかで見る「あの感じ」に近い。
入り口の管理人の人に聞いてみると、確かにこれは日本人だということだった。

ちなみに、この彫刻がどこにあったかというと…

潮州会館
潮州会館というのは潮州系(今の広東省潮州市あたり出身)の華僑の人が集まったり、先祖に祈りをささげたりするところです。でもなんで、日本人の彫刻が潮州会館にあったのだろう。
しかも、船乗りとかの男ではなく女の人だ。ちなみに彫刻については、日本髪を結った中国人女性という説もあるみたいで、定かではないみたい。
潮州料理とかは日本人の口には合うのですが、それにしても繋がりがわからんのです。
(船乗りは男社会なので、日本人が潮州系の華僑と結婚し、故郷恋しさに女の人にお願いして日本髪を結んでもらった?ってのが私の勝手な説です。そして日本人街と中国人街は同じところにあったけど、鎖国政策してから日本人は少なくなり、今の状態になったのかもしれません。)
ちょっと今日不思議に思ったことなので書いてしまったけど、気にしないでほしい。
他にも廣肇会館(廣東)や海南会館などもあった。
また、日本の建築様式が取り入れられている華人の家もあるらしい。

日本の建築様式は主に屋根の梁部分にあり、くぎを使わないで屋根を作ることができるようになってる。今でも宮大工さんなどは同じような技術を持っていると思うが…

上の材木のように穴が開いている部分にもう片方の木を差し込んで、ピッタリと合わる。当時から日本人の建築技術はかなり高度で正確なものだったようだ。たとえそれが海外であっても。
ただそのせいか、今現在ホイアンには修復をできる人がいないのかどうかわからないが、世界遺産の建物に鉄釘やボルトが打たれれていて、かなり残念な感じだったのは否めなかった。
ただ頻繁に洪水のある地域なので、仕方がないのだろう。宮大工さんの需要ってこういうところにもあるのかもしれない。
そして床には鉄釘が輝き、ガムの黒々とした跡が目立つ。
しかしながら、これらの家屋には洪水から身を守り、生活をする知恵が随所に見られて、とても興味深かった。
ホイアンに行った際は歴史の勉強をちょっとだけしてから行くと、モノの見え方がかなり違うかもしれない。
夜になるとこの川にランタンが浮かび、幻想的な光景になる。
ただ、私の時はちょっと様子が違った。街が停電してしまった。灯がランタンだけになった時に「なんか変だなぁ」って思いつつ、「あっ停電だ」ってことに気が付いた。この日はお湯シャワーが出なかった。
ベトナムでも停電ってあるらしい。ジャカルタ以来だわ。